笑いと恐怖の融合
第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編
2時間の映画なら、ちょうど1時間あたりで最初に提示された物語を終え、新たな展開に入っていく。この映画もその法則性にのっとっているのだけれど、その折り返し地点から起きる展開は、全く予想がつかなかった。
最初から最後まで、「●●●が起きるかもしれない」という不安と恐怖がどんよりと漂っていて、みるものを飽きさせない。そしてエピローグ部分で描かれる希望と絶望が、私たちの目の前にある夢と現実を突きつける。
そこで問われている問題は、我々にも無関係とは決して言い切れない。笑えるのに、恐ろしい。「パラサイト」は、そんな珠玉の映画体験をさせてくれる。
果てしない人間の欲望
あらゆる想像力を駆使して人間の欲望を描いたとき、どんな映画を作ることができるだろう。
パゾリーニの「ソドムの市」を見ると、その自分の想像力の限界を思い知らされる。欲に塗れた人間が現実に行動する姿を見たときに感じる不快感、嫌悪感は自分が想像できるようなものではなかった。
作中で描かれる浅ましい人間の姿。妄想と欲望と残酷さが渦巻く。二度観ることが躊躇われる、そんなトラウマ映画だ。
テンションは右肩上がり
読みながら、荒木飛呂彦さんの漫画術を思い出した。
物語は右肩上がりになっていくものであって、決して下がることはない、という少年漫画の原則を荒木さんが書いていた。主人公のオリバーも同じような立ち位置に置かれているように感じた。恐怖や怒り、悲しみ、喜びは感じるけれど、自信を失ったり、深く思い悩んだりすることはない。
けれどもその法則性と主人公のキャラクターが結びついていなければ、説得力が生まれない。主人公がなぜそのようなメンタリティを持つに至ったかは、第一巻の最後、エピローグ部分で描かれる。彼はこれから起きるであろうことをすべて予想している。特別な訓練を受けていて実力もあるし、学園に関する知識もある。考え抜いて行動しているからこそ、ちょっとやそっとのことので動じることはないのだ。
彼の視点で世界を見ていくと、自分が強くなったような感じがする。他の誰も知らない世界の秘密を知っている。全然負ける気がしない。そんな第一巻だった。
私たちは善良になれるか
たとえどんな理由があろうとも、他人を踏み付けにしたり、殺したりしていいことにはならない。そんな大原則が堂々と描かれた作品だった。
この物語は犯人と同じような不幸な境遇に生まれた男たちが、悪意に立ち向かう話だ。ウィルは特殊捜査官として社会の秩序を取り戻すため、ジョンは自分の人生を守るために真犯人を追いかける。
その結果、ウィルは掛け替えのない大切なものを失い、ジョンは自分の人生を、わずかばかり取り戻す。
そうは言っても、ジョンの刑務所で失った20年間は取り戻すことができない。最後に果たされるわずかばかりの復讐も、失ったものと釣り合うようなものではない。彼の今後の人生が幸福であることを祈るしかない。
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原作の題名はTriptych(=三面鏡のように蝶番で繋いだ三枚続きの絵画)だ。
この小説は第1部マイケル、第2部ジョン、第3部ウィルと、三部に分けて書かれており、その三人の姿を通して主題が浮かび上がるように付けられたタイトルだと言える。
対して日本語タイトルの「三連の殺意」は、何を指しているのかよく分からなかった。起きた事件の数とも合わない。筋としては連続殺人を追う話ではあるので、それを表現したかったのだろうか。その殺意の解明が、物語のカタルシスにつながるわけではないのだが。日本語タイトルから想起されるイメージと、作品がかなり解離していた。
信用とは裏切られてもいいと思うこと
西尾維新さんのデビュー作。天才たちが集められたとある島で、殺人が起きる物語。主人公のセリフ、「ぼくは嘘つきだ」が印象的。
嘘つきのパラドクスというものがある。
「私は常に嘘をいう」
この文章は真か偽か、判定せよという問題だ。
この文章が真ならば、この文章自体が嘘となり、矛盾。偽ならば、「私は本当のことをいうことがある」という文章を考えれば良い。私は嘘をつくこともあれば、本当のことをいうこともある。(今回の「私は常に嘘をいう」は嘘だ)矛盾はない。
よって、この文章は偽である。
詳しくは以下の本に載っている。
つまり、主人公のいう「ぼくは(常に)嘘つきだ」というセリフは、論理的には偽。矛盾している。「ぼくは嘘をつくこともある」、あるいは「ぼくは嘘を言うこともあれば、本当のことをいうこともある」ならば、真。正しい意味になる。
しかしそれだと、面白みにかける。「ぼくは嘘をつくこともある」なんて言う奴よりも、「ぼくは嘘つきだ」と平然と言ってのける主人公の方がはるかに魅力的だ。
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しかし、なぜそんなことをいうのだろう?
なぜわざわざ間違ったことをいうのだろう?
主人公は天才だ。自分の言葉が論理的に間違っていることを自覚しているのは間違いない。読者を煙に巻いているのか。あるいは読者に対する警告なのか。「ぼく」は信用ならない人間だ。だから注意しろ。そう言いたいのか。分からない。だが、間違いなく言えるのは、語り手である「ぼく」は、読者にとって、一筋縄ではいかない人物ということである。
そんな「ぼく」は、とある島に閉じ込められている。そこには一癖も二癖もあるどころか、三癖、四癖ある天才ばかりが集められている。しかもその中には殺人者がいる。犯人は誰だ? 信用できる人間は誰だ? 主人公は「自称・嘘つき」。いまいち信用できない。では、誰を信じればいいのだろう?
作中で、「ぼく」の考える信用とは何かが、述べられている。「ぼく」にとっての信用とは、「裏切られてもいいと思うこと」、「裏切られても後悔しないと思うこと」だと言う。
どうやら読者も、覚悟を決めなければならないらしい。
あなたは誰を信じる? 裏切られても後悔しない相手を選べ、と。
時系列をバラバラにする
かなり入り組んだ物語だった。十三人のプレイヤーを操作し、世界を崩壊させる謎のロボット軍団と自分自身の身に降りかかった謎を明らかにしていくゲームだ。
並行で複数のプレイヤーを操作すると物語を追いきれなくなるので、見た目の第一印象とプロローグの印象から自分の主人公を決めることにした。思考が単純そうという理由で、緒方稔二を選ぶ。
稔二の物語は「時をかける少女」のような時間を何度も巻き戻るタイム・リープもの。(実は違うのだけれど)如月に対する気持ちがはっきりと提示されるし、感情軸がしっかりしていて分かりやすかった。途中、ストーリーの進行にロックがかかるので、何人かのプレイヤーのシナリオを進めながら、稔二編を終える。
そこからはなかなか困難な道のりだった。南、鷹宮の1985年組と比持山、三浦の1945年組は比較的とっつきやすかったが、2025年組と2065年組はかなり複雑だ。
記憶が混乱している人がたくさん出てきて、物語の方向を何度も見失いそうになる。そもそもどうやって問題を解決すればいいのか、その糸口すら掴めないまま物語は進行していく。
設定も特殊だ。機兵、ダイモス、時間移動、記憶喪失、同じ名前の人間、挿入される2188年のシーン、幻覚、ドロイド、意識だけの存在……複雑に絡まったそれらの糸を、どこから解きほぐせば良いのかがつかめない。その上、語り手がどうも信用できない。記憶がないと言いながら、何かを隠しているようにも見える。感情的につながっていない話も多いし、回想内回想が多用されるため、シーンのつながりを把握するのも難しい。
だから、目の前で展開されるシーンをそのまま受け入れるしかない。目の前で起きたことは全て真実である。そう受け止めながら、物語を追いかけていく。けれども、それでも物語の姿は見えてこない。
なんとか物語の最後まで辿り着き、事の真相が明かされる。一体、自分の身に何が起きていたのか、そこで初めて理解する。オチは分かった。けれど、エンディングに至ってもまだ感情や行動原理が分からないプレイヤーが何人もいる状態だった。
私はこの時、分かっていなかったのだが、この作品の楽しさは、そこから始まるのだった。
謎解きモードで断片的につなぎ合わされたシーンを時系列順に並べ直し、読み直す。そうすることで、シーンの意味と、登場する人々の感情が一本の線でつなぎ合わされ、本来の物語の全体像が見えてくる。
これが楽しい。
そこで私はようやく気がついた。このゲームは小説のように、主人公を通じて世界をみて、体験するのではない。シーンをアイテムのように収集して、つなぎ合わせて楽しむものなのだ。それはブロック遊びにも似ている。
作品を俯瞰してみると、複数の物語がレイヤー状に重なり合っていることがわかる。映画でいうと「インセプション」のような構造だ。「インセプション」では現実、夢、夢の中の夢、夢の中の夢でみた夢、という四重の重ね合わせが起きている。夢と現実につながりはない。夢なのだから、つながらないのは当然だ。この作品もシーンのつなぎ方がそれによく似ている。
同じ名前、同じ姿、同じ場所のシーンが少しずつ形を変えて描かれる。それらはつながっているように見えるけれど、実は別の物語だったりする。混乱する理由はそこにある。主観的に物語を追いかけても、その違いを見分けることはできない。必要なのは神の視点で物語を俯瞰することだ。
私たちは主人公たちと一緒に混乱した夢を見る。夢の中の冒険の果てに目覚め、初めて真実を知る。夢の中にいては、自分が夢を見ているのか、目覚めているのか、知ることはできない。目覚めて初めて、ああそうか、自分は夢を見ていたんだ、と気づくことができる。そこで初めて私たちは登場人物たちと一緒に真実を知る喜びを味わう。そんな体験をさせてくれるゲームなのである。
コントロールできない力
自分をコントロールできない主人公の物語。師匠のような人間と出会い、修行をする。それによって、初めて自分と向き合うことができるようになったかのようにみえるが……という話。
主人公と師匠とその妻の三角関係、そして主人公がどう自分自身と向き合うのかを軸に観ていくと話がわかりやすくなる。ある宗教をモチーフにしているようで、途中で出てくる唐突とも思える要素はそこからきているようだ。現実と関連させて見てみないといまいちピンとこない話だが、そうした外部情報を知った上で見ると、骨格のしっかりした物語が浮き上がってみえるようになる。
自分自身の中にあるコントロール不能な力(しかもスーパーヒーローもののように役立てられるものではない)とどう向き合っていくか。それは難しい問題だ。そしてポール・トーマス・アンダーソン監督が一貫して描いている主人公像でもある。
自分の出自と向き合う
スター・ウォーズが完結した。世界中にたくさんのファンがいて、1977年にアメリカで公開されてから、何十年も愛され続けている、ものすごい力を持ったシリーズだ。完結編であるエピソード9も、誰でも楽しめるエンターテインメント作品だった。
観終わってレイのことをぼんやりと考えていたら、その行動がある映画の主人公とほとんど同じだということに気がついた。「アナ雪2」のエルサだ。
物語の骨格は以下の通り。主人公Aとその仲間たちBの関係を考える。Aは特別な力を持っている唯一の存在。Bたちは勇敢な普通の人たちだ。
(1)主人公Aはすごい力を持っている。その力はどこからやってきたものなのだろう。主人公は自分の出自に悩む。
(2)外から敵がやってきて、自分の住んでいる場所が危険にさらされる。放置すれば自分の住んでいる街や愛するものを失うかもしれない。
(3)Aは問題を解決すべく、ひとり冒険に出ようとする。すると仲間Bたちが一緒にいくという。Aをひとりにするなんてできない。心配だ。Aは一応納得。
(4)AとBたちの大冒険。
(5)AはBたちを置き去りにして、先へ進んでしまう。Aにはすごい力がある。Bたちにはたどり着けない場所へ行ってしまう。
(6)Bたちは置き去りにされたと感じるが、AにはAの考えがあるのだろう、自分たちのやるべきことをやろう、と思う。
(7)それぞれの冒険。Aは自分の出自と向き合う。Bたちは敵と戦い、社会と向き合う。
(8)問題の解決。AとBたち、それぞれの勇気ある行動のおかげで、再び世界は平和になった。どちらが欠けても解決しなかった。そしてその冒険を通じて、Aは成長し、自分が何者であるかをはっきりと宣言する。
演出的な表現に差はあるけれど、主人公の心情、動きはかなり似ている。すごい力を持つ主人公は「家族」や「出自」といった個人的な問題と向き合う。一方の力を持たない普通の仲間たちは「自由」や「社会」と向き合う構造になっている。私たちと同じ立場である。
主人公は助けたいという仲間たちの存在を大切に思っているが、どこか疎ましく思ってもいる。途中で我慢ができなくなり、その力を全開放してものすごく遠くまで行ってしまって、そこで孤独を深めたりする。そこで主人公の問題意識はどんどん内面化する。その問題を解決するために再び立ち上がり、冒険を続ける。その先で主人公は真実を手に入れる。
主人公の未来は出自や血によって決まるのではない。その意志と行動によって切り拓かれるのだ。
自由って本当に大事なの?
自由であることは素晴らしい。何物にも縛られることなく自由に選択することで、私たちは本当の人生を生きることができる。自由は私たちを幸福にするのだ。
それが自由主義の光の面ならば、セロトニンで描かれる物語は自由主義の闇である。主人公は自由であるがゆえに悲しみに沈み、生きる希望を失い、そこから脱出する方法を見つけられないでいる。
主人公は曖昧な価値観を持った人間ではない。自分が幸せになれる方法を、はっきりと持っている。それはセックスをすることだ。女性と円満な関係を作ることで自分は幸せになれると何度も主張する。
その主人公は女性関係で悩み、鬱状態にある。医師からキャプトリクスという抗うつ剤を処方され、服用するようになる。それは鬱状態を改善するが、勃起しなくなるデメリットがある。その薬の効果で、主人公は生きてはいるが、決して幸せにはなれないというジレンマに陥る。
悲しみに打ちひしがれ、死にたくなる主人公は、死にゆく人間が自分に少なくない影響を与えた人間にもう一度会いたいと思うように、これまで付き合った女性、自分が本当に愛した女性、数少ない頼れる友達に会いに行く。そしてそこでこれまでとは違った絶望を味わい、ますます孤独を募らせる。
主人公は財産を持っている。倹約すればあと十年ほど生きることができるが、幸せを感じることもなく、だんだんと減っていく金を数えながら生きる意味はあるのかと自問する。
この出口のない絶望は日本に生きる私たちにとっても他人事ではない。では、どうしたら私たちは幸福になれるのか? 主人公とは全く異なる価値観を持っていたら、自由主義以外の制度の元だったら、私たちは幸せになれるのか? その問いに対する答えは簡単ではない。
あとがきには、小説の作者、ウェルベックがどのような人物であるかが書かれている。そこに書かれている作者の行動を元に、どのような企みを持ってその小説を書いたのかを想像するのもおもしろい。前作の「服従」もフランス社会の影を切り取って見せたウェルベックだ。小説の中に様々な仕掛けが用意されているに違いない。社会との関連を考えながら作品の持つ意味を考えることで、より深く作品を味わうことができる作品だ。
現在価値を計算する
「ロング・グッドバイ」の中にお金の話をするシーンがいくつかある。例えば、マーロウはレノックスから5,000ドル札を受け取り、その金を受け取るほどの仕事はしていない、と考える。小説が出版されたのは1953年だ。この5,000ドル札は今で言うと、どれくらいの価値があるのだろう。
ネットで調べてみると、計算している人たちはたくさんいるようだ。自分もやってみることにした。
まず参考にしたのは日銀のサイト。
https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/
現在価値を正確に測ることはできないが、企業物価指数や消費者物価指数を使えば大体の価値をつかむことはできる、ということらしい。なるほど。
「ロング・グッドバイ」がアメリカで出版されたのは1953年なので、その頃の消費者物価指数を使うことにする。アメリカの消費者物価指数はアメリカ労働省労働統計局が毎月発表している。
https://beta.bls.gov/dataViewer/view/timeseries/CUUR0000SA0
1953年Octは27.0、2019年Octは257.346。この二つの数字を使えば、1953年の現在価値は約9.53倍であることがわかる。
10月を選んだのは、現時点で発表されている最新のデータが10月だったから。1953年の消費者物価指数(CPI)は26.5〜27.0の間で推移しているので、9.53〜9.71倍になる。概算なのでこれくらいのブレはそれほど問題にはならないだろう。
2019年12月2日の為替は終値108.98円なので、約1,038.72倍。大まかにいうと、1,000倍すれば良い、と言うことになる。つまり、5,000ドル札は5,000,000円。マーロウはレノックスから500万円札を受け取ったのだ。その札をポンと出せるレノックスが一体どういう人物なのか、その金額からも想像させられる。
舞台も年代も全く違うけれど、「カラマーゾフ」も1,000をかければ良かったはずだ。(先日のNHKの番組でも亀山さんがおっしゃっていた)その言葉に従えば、3,000ルーブルは3,000,000円。ミーチャは300万円の乱痴気騒ぎは、実は150万円しかかかっていなかったんだ! と主張するわけだ。ミーチャは相当派手に金を使ったんだということだけは分かる。
それにしても小説の中で飛び交う金は派手だな。
結末を想像する
NHK 100分 de 名著 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 2019年 12月 [雑誌] (NHKテキスト)
- 作者:
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2019/11/25
- メディア: Kindle版
ドストエフスキーの小説には「笑い」の要素があると感じていたが、そのことを再確認させてもらった。ゾシマ神父と一緒に一家が集まるシーンは暴力と狂気の笑いが渦巻いているし、ミーチャがグルーシェニカの愛を取り戻そうとのたうちまわる様子は、この本の中で「スケルツォ」と評されている通り、滑稽ですらある。
本書は小説の中で描かれる分かりにくいシーンを、こういうことだよ、と順を追って丁寧に解説してくれている。さらには表までついていて、出来事が整理されているので、ミステリーとして読む時、情報整理にも役に立つ。
いまだに「カラマーゾフの兄弟」は研究され、学会が開かれているのだそうだ。まだ読み解きができるということは、多元的な読みが可能であると同時に、正解がないともいえる。何しろ、小説冒頭で予告される「第二部」は書かれることなく終わっているのだから。存在しない小説がなければ、答えは出ない。そこにはサモトラケのニケのように、想像力がいくらでも入り込む余地がある。
自分を解放する
今回はエルサが自分のルーツと過去に起きた謎を求めて、物語をぐいぐい引っ張っていく。 観終わって考えたのは、エルサとアナの関係、クリストフの描き方だ。
(1)エルサとアナの関係
ひとり冒険に出かけようとするエルサを、心配するアナ。エルサは口には出さないけれど、ちょっと迷惑そうなニュアンスが表情に現れていた。
魔法の力を持つエルサと、持たないアナ。エルサは内心、アナにはその力を理解できないと感じているのかもしれない。アナだけではない。実のところ誰も力を持つエルサの気持ちを理解することはできない。エルサのように自由に魔法を使いこなせる人間は、他に誰もいないのだから。
エルサは魔法が使えるだけではなく、今回は「声」が聞こえる。「声」は魔法以上に厄介だ。何しろ誰かに見せることができない。エルサの認知の問題だ。本当に存在するかどうかも疑わしい。やはりその気持ちは誰とも共有できない。「声」はますますエルサを孤独にする。
その抑圧された気持ちが、海を超えるシーンで解放される。自分の持つ力を解き放ち、荒れ狂う海を渡っていくのである。そのシーンは観ていてとても気持ちがいい。
その一方で、その解放はアナとエルサの分断を生んでしまう。エルサは海を渡れるけれど、アナは渡れない。力のないアナは決してアナの元へいくことはできないのだ。
別れてしまった二人の道。どうすればその道が再び交わるのだろうか。その問題解決の鍵はアナの「気持ち」だ。アナはエルサのことを信じる。そして目の前の問題を解決しようと奔走する。その思いの強さのおかげで、二つの道は再び交わり、エルサとアナはその冒険の先で再び出会うことになる。
一歩下がって俯瞰すると、アナやエルサの視座から、その二つの道がつながっているようには見えない。けれど、エルサを信じることなしには、その道がつながることは決してなかった。強引とも思える「気持ち」による物語の結び合わせこそ、「アナと雪の女王」らしさだよな、と感じる。
(2)80年代っぽいクリストフ
「恋の迷子」を観ると、今の王子様って、こういうポジションなのかーと考えさせられる。ぎりぎりまで攻めた表現だ。そして、アナがそんなクリストフを受け入れている、というところがなんとも良い。
絶望的な状況で感じる解放感
異能力を描く
漫画や小説でおなじみの、特別な力を持った人々の姿が描かれる。
少年漫画ならその能力をバトルに生かし、敵を粉砕するところだが、本書の中の能力者たちは人間の中に潜み、その力を隠しながら生活している。その力がなぜ発生したのかは分からない。どうやら常野という土地に根ざした力のようである。
能力と血や土地との関連性を強く連想させるところ、そして、その能力は人の意志で操ることのできるものではない、運命のように受け入れていくものだ、という立場が本書の特徴だと感じた。
異質な力をもつ人たちは、多くの場合、一般的な人から疎んじられ、虐げられたりする。そんな困難な状況にあって、いかなる問題を解決するか、どんな敵と対決するかが能力ものの見どころの一つだ。「光の帝国」で描かれる能力は地味で小さなものばかりかというと、そうでもない。結構、ド派手なことが起きる。殺人も起きるし、時が巻き戻ることもある。力をもつ善良な人たちと、力を持たない悪人たちの間で摩擦が起きたり、自分の身に降りかかる不幸をその力で払おうとしたり、未来に起きる出来事を先に見てしまったりする。
少年漫画向けにするなら、お互いに力を持ち、譲れないものがあり、その力を行使しなければならない状態に追い込まれるだろう。そうした状況設定の違いを考えてみるのも、別の味わいがあって楽しい。
100という数字の偉大さ
本書は西尾維新さんの100冊目の小説なのだそうだ。巻末にリストがついていて、今までの作品のタイトルが分かるようになっている。それ以外にも漫画の原作や、脚本なども執筆されているので、本になっていないものも含めれば、それ以上だ。物事は「続けること」が大事だと言われるが、書き続けて100冊、という結果を生み出したことに、素直に感服する。
本書は「その悪と主人公がどう向き合うか」が気になって読んだ。だが、どうもそれとは違う方向に話が転がっていってしまった。そういうオチもあるのか、という感想を抱く。
とにかく軽妙な語り口が印象的に残った。