信用とは裏切られてもいいと思うこと
西尾維新さんのデビュー作。天才たちが集められたとある島で、殺人が起きる物語。主人公のセリフ、「ぼくは嘘つきだ」が印象的。
嘘つきのパラドクスというものがある。
「私は常に嘘をいう」
この文章は真か偽か、判定せよという問題だ。
この文章が真ならば、この文章自体が嘘となり、矛盾。偽ならば、「私は本当のことをいうことがある」という文章を考えれば良い。私は嘘をつくこともあれば、本当のことをいうこともある。(今回の「私は常に嘘をいう」は嘘だ)矛盾はない。
よって、この文章は偽である。
詳しくは以下の本に載っている。
つまり、主人公のいう「ぼくは(常に)嘘つきだ」というセリフは、論理的には偽。矛盾している。「ぼくは嘘をつくこともある」、あるいは「ぼくは嘘を言うこともあれば、本当のことをいうこともある」ならば、真。正しい意味になる。
しかしそれだと、面白みにかける。「ぼくは嘘をつくこともある」なんて言う奴よりも、「ぼくは嘘つきだ」と平然と言ってのける主人公の方がはるかに魅力的だ。
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しかし、なぜそんなことをいうのだろう?
なぜわざわざ間違ったことをいうのだろう?
主人公は天才だ。自分の言葉が論理的に間違っていることを自覚しているのは間違いない。読者を煙に巻いているのか。あるいは読者に対する警告なのか。「ぼく」は信用ならない人間だ。だから注意しろ。そう言いたいのか。分からない。だが、間違いなく言えるのは、語り手である「ぼく」は、読者にとって、一筋縄ではいかない人物ということである。
そんな「ぼく」は、とある島に閉じ込められている。そこには一癖も二癖もあるどころか、三癖、四癖ある天才ばかりが集められている。しかもその中には殺人者がいる。犯人は誰だ? 信用できる人間は誰だ? 主人公は「自称・嘘つき」。いまいち信用できない。では、誰を信じればいいのだろう?
作中で、「ぼく」の考える信用とは何かが、述べられている。「ぼく」にとっての信用とは、「裏切られてもいいと思うこと」、「裏切られても後悔しないと思うこと」だと言う。
どうやら読者も、覚悟を決めなければならないらしい。
あなたは誰を信じる? 裏切られても後悔しない相手を選べ、と。