木曜日20時、不定期更新。 小説、映画について書きます。 推理小説中心です。

「運命」とは人智の及ばぬもの

 

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

 

あらすじをみると、「恋愛小説」「犯罪小説」というワードが並んでいる。なるほど、マクベスのギミックを仕掛けたのは誰かを解き明かす「推理小説」なのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。ジャンルを誤解していた。

 

タイトルにも入っている「マクベス」。様々な読み解きが可能な物語ではあるが、その骨子は「運命」をどう向き合うかということだ。この小説の中でも主人公の「運命」に対する姿勢が問われる。

 

話の構造は「ホワイト・ジャズ」 に近い印象だ。巨大な敵の計画に振り回される主人公は、そこから抜け出すために必死にもがく。価値観は壊れていて、殺人すら厭わない。その上、罪悪感はない。

 

「ホワイト・ジャズ」と違うのは、主人公の戦う敵だろう。「ホワイト・ジャズ」において、主人公の前に立ちふさがるのは腐敗した警察組織や権力にしがみつく男たちだ。「未必のマクベス」の敵はそれだけではない。魔女の予言やバンクォー、マクダフが立ち塞がる。

 

自分の身に「マクベス」になぞらえた出来事が次々に起こる。そこで主人公はこう考えるようになる。自分は「マクベス」の登場人物なのか? これが俺の「運命」だというのか? ならば、そこから脱出するにはどうすればいいのか? 

 

次第に主人公は、自分自身を「マクベス」という枠組みで捉えるようになっていく。特に物語の後半は、そうした狂気に取り憑かれた判断を下すようになる。この作品の中で「運命」を受け入れるというのは、狂気に飲まれることと同じことだ。

 

主人公像は「バーニング」に出てきたベンに近い印象を受けた。金を持っていて、人を殺すことに躊躇はなく、目の前に起きる出来事を運命だと受け入れる。雨が降り、川が決壊し、人が流されていく様を眺める。そこにはなんの感情もない。ただそういうものだと感じるだけだ。実際、殺人を指示しても罪悪感を感じたりしない。だが、そんな彼にも楽しいと思うことがある。それをした時だけ、胸がドキドキして、生きている、と感じる。主人公の中井の場合、それは二十年前の片思いの相手を救うことであり、ベンはビニールハウスを燃やすことだ。

 

狂気という点でみると、伴の最後の語りは様々な解釈ができておもしろい。伴はマクベスが始まったのは高校の時だと言った。だが、伴は高校の時からそう思っていたのだろうか? そう思うようになったのは、狂気に取り憑かれてからではないか。あるいは病気に冒されてからかもしれない。「あれは高校の時に始まったんだ」と、記憶を遡行して改竄したのかもしれない。狂人の語りは物語を不確かで、複雑なものにする。