木曜日20時、不定期更新。 小説、映画について書きます。 推理小説中心です。

自分の目を信じきれるか

 

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

 

 昔、伊坂幸太郎さんの「ラッシュライフ」を見たとき、表紙にエッシャーの絵が描いてあって、「なるほど、これは現実では起き得ない、だまし絵構造の小説になっているんだ!」と思って、そいつはおもしろそうだ! と、興奮して読んだ。だが、その予想は外れた。

 

そのエッシャーのようなだまし絵構造のアイデアは、この本、「プラネタリウムの外側」の中で存分に味わうことができる。

 

同じく早瀬さんの作品である「未必のマクベス」でも感じたことなのだが、主人公の考え方に結構な飛躍がある。

 

「未必」でいえば、自分はマクベスという物語の中の登場人物なのだと思い込み、運命を受け入れるところであり、「プラネタリウムの外側」では、自分はブレードの中でシミュレーションされた存在なのだと思うところだ。主人公がわりとはっきりとしない現象を受け入れるところに、特徴があると感じる。

 

映画や少年少女向けの小説だと、もっと明確な不思議なことが起きる。「ハリーポッター」でいえば、壁を抜けて秘密のプラットフォームに抜けたり、「鏡の国のアリス」でいえば、タイトル通り、鏡を抜けて異世界に入る。「マトリックス」ならエージェント・スミスに命を狙われる。自分が正しいことをした結果、敵であるシステムが主人公をエラーとして排除しようとする。物語の構造上、敵の動きが、主人公の行動は間違っていないことを、裏書きしてくれている。一歩下がって俯瞰してみると、あなたのその考え方は間違っていないことを、物語の世界が肯定してくれる。

 

だが「未必」も「プラネタリウム」も、世界は肯定してくれない。主人公たちの周りの世界はもっと超然としていて、人間に対して無関心だ。そんなはっきりしない状況で、主人公はいかに自分が正しいと確信するようになるのか。

 

鍵となるのは「自分はどう考えるのか」を重んじる、実存主義的な物事の捉え方ではないかと思う。

 

ひどくこんがらがった状態が起きていても、自分の目で見て、考えたことを正しいと確信する。自分に備わっている理性を重んじる。そうすることで、主人公は困難を乗り越え、先に進むことができるようになるのだ。