木曜日20時、不定期更新。 小説、映画について書きます。 推理小説中心です。

『ゲームの王国』、「歴史」・「SF」・「認知の歪み」、いろんな要素のごった煮が楽しい!

 

ゲームの王国 上 (ハヤカワ文庫JA)

ゲームの王国 上 (ハヤカワ文庫JA)

 

 SF小説。上巻は1956年から1978年、ポル・ポト政権下のカンボジアが舞台。「平等な社会を実現する!」、そんな理想に挑んだ人間たちが生み出したのは、この世の地獄だった。そんな、皮肉な世界で生きる人々の姿を描く。

  

そこでは、日本に生きる私たちが許されている様々なことが制限され、否定される。まず個人は、巨大なシステムへと組み入れられる。システムは私たちに対し、忠誠を要求する。個人的な意見や感情を持つことは否定され、それを持つ人間は即座に抹殺される。システムはチェックすることも忘れない。危険な思想を持っていないか、様々なトラップが仕掛けてくる。システムに対する不平不満を述べれば、そこで終わる。密告されれば命はない。何かを思っていても、決して口にしてはならない。信用できる人間は誰か。常に考え続けなければならない。

 

まさに地獄。そんな地獄から抜け出すにはどうすればいいのか? 主人公、ムイタックの目を通して、そんな世界を見ることになる。

 

 

ゲームの王国 下 (ハヤカワ文庫JA)

ゲームの王国 下 (ハヤカワ文庫JA)

 

下巻は飛んで2023年以降、未来の話。

 

主人公のムイタックは、脳波を使ったゲームを開発する。話のメインは、ムイタックとソリヤの純愛だ。二人の天才のねじれた愛の行方を読者は目撃することになる。

  

上巻の方が印象に残った。どうすれば地獄から抜け出せるのか。生きるためには、考え抜かなければならない。地獄にさす一筋の光。その光を頼りに、前に進むしかない。そんなサバイバルものとしての楽しさがあった。

 

一方の下巻は、一応、世の中は安定している。政治は腐敗しているけれど、なんとか生活できるくらいの状態にはなっている。けれど、そんな世界では満足できない二人が世界を変えようとする。そんな理想の話が描かれる。

 

上巻は地獄めぐりの話であり、下巻は夢を追い求める者の末路を描いていた。上巻には遠くにあるわずかな希望を感じたが、下巻にはだんだんと収束していく寂しさがあった。それが読後感の違いにつながったのかもしれない。

 

● 

『ゲームの王国』は、章ごとに様々な技巧が凝らされる。

 

やし酒を飲みまくってめちゃくちゃなことをする男や、勃起で真実に至るテレビ屋などは、チュツオーラの『やし酒飲み』や、ピンチョンの『重力の虹』の影響を感じた。

 

 

 

 

 章によっては、土を操って敵兵を殺害したり、輪ゴムで未来を予言をしたり、嘘を聞くと勃起したりする人たちが出てくる。その人たちは正気なのかは分からない。間違いないことは、彼らの目から見た世界を描いているということだ。土を操る男は、自分は土を操れると信じているし、輪ゴム男は輪ゴムが未来を教えてくれると硬く信じている。勃起男もそうだ。嘘つきは勃起が教えてくれる。

 

彼らの精神状態は外から見るとまともではない。けれど、彼らの中では完結している。そう考えなければ、自分の身に起きている矛盾や不可思議な現象を説明できないからかもしれない。認知は歪んでいる。

 

私たちがそれを否定しても無駄で、彼らが現実を受け入れるためには必要なことなのだ。それは我々の人生にも通じる心のあり方だ。

 

しかし、そうした「自分の信じたものが正しい」と考えは、危うさも孕んでいる。それは『ファンタジーランド』や『11の国のアメリカ史』などに書かれていた人たちのことを思い出させる。

 

 

 

14041.hatenablog.com

 

 

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SF小説は客観性や科学的な思考を重んじる。

本書の中ではそれとは対極にある人たちの姿にも多くのページが割かれている。

そいういう意味では、SF小説というジャンル小説の枠からは大きくはみ出た小説のようにも思える。様々な要素のごった煮が楽しい小説だ。