木曜日20時、不定期更新。 小説、映画について書きます。 推理小説中心です。

「良き読み手」とは、筆者の書こうとしたことを考え抜く人のことである

ガイド本が好きだ。

 

ガイド本は基準を作るのに役に立つ。小説におけるミステリーやSF、純文学、映画におけるバディ・アクションや西部劇、政治、戦争ものなど、ジャンル作品を読んだり観たりするときに、これまでどんな流れがあり作品なのかを掴んでおくと、難解な作品の森に迷い込んだ時にも迷子にならずに済む。

冒険に出る前には準備が大切だ。事前の準備を怠り、情報を集めずに飛び込めば、成功することもあるし、失敗することもある。冒険の生存率を高めるためにはガイドの助けが必要なのだ。

 

ガイド本には時間を効率的に使えるという利点もある。名作と呼ばれる映画や本は世の中にとにかくたくさんあって、一生かけても読みきれない。

「まあ、そうはいってもがんばればなんとかなるんじゃないか」とも思い、観たい映画と読みたい本をノートにリストアップし、一年くらいかけてコツコツと消化してみたこともあった。だが結果は散々で、全部は無理だと早々に見切りをつけた。しかたなく順番をつけることにした。当然、読んでいない私は中身に順位をつけようもない。だからガイドの意見を借りるのだ。

 

困ったことに、忘れるという問題もある。私は記憶力がいい方ではない。数年経つとすこんと忘れていることがたくさんある。読み方が雑であったりすると、忘れる可能性はさらに高まる。読むことを急ぐあまり「とりあえず最後まで目を通したぞ」という自己満足で終わっていることもある。そうなると、思い出すことができない。作品の骨子を語ることができない。

 

語ることのできない作品は引き出しの中にしまいこまれた消しゴムのようなものだ。何の役にも立たない。引き出しを開けた瞬間に出てきて欲しい。

 

そんな時は頭の中の引き出しを整理整頓するために、再読をする。そんなときにもガイド本は役に立つ。紹介記事を読むと「ああ、そういう話だったな!」と思い出しやすくなる。さらに新しいガイド本を読むと「そういう読み解きもあるのか」と唸らされることもある。それは嬉しいおまけだ。

 

そのガイドの中でも好きなのはナボコフだ。「文学講義」シリーズにおけるナボコフは、良い読み手の大切さを解く。良い読み手とは小説の細部を愛することであり、書き手が何を表現しようとしているのかを考え抜くことである。

 

 

 

 この本の中でナボコフはこう言う。

 

 すばらしい読者とはどんな人間なのか、定義を下してみよう。彼は特定のどのような国家、どのような階級にも属さない。どのような精神分析医も、どんなブック・クラブも彼の魂を操ることはできない。小説作品に対する彼の態度は凡庸な読者があれこれの登場人物に感情移入したり、叙述的部分をすっとばして読んだりするような、青臭い感情に支配されてはいない。このすばらしい読者は小説の中の男や女に自分をなぞらえるのではなく、その小説を発想した精神に自らをなぞらえる。

 

ナボコフは主人公と自分を同一化するような読み手は俗物であると断言する。「ボヴァリー夫人」や「アンナ・カレーニナ」の主人公たちがそのような読み方をすると、この主人公は俗物だということを書き手は表現しようとしている、と読む。

 

また、良い読み手は小説とは作り物の世界であることを理解していて、小説と現実を区別する。小説の用意する舞台とは、現実とは全く異なる特殊な世界であり、それを承知した上でそこに描かれる特定の描写などの細部を味わい尽くすべきだと言う。そこにロシアの現実や精神を求めるのはやめたほうがいい。それは絵をみずに、額縁を論じているようなものである、とナボコフは言う。

 

さらに小説の中で描かれる思想に対しても関心を持たない。思想よりも情景の描写の美しさに心惹かれるのである。美しい文学の数々を生み出したロシアの自由主義が思想によって破壊されてしまったことを見てきたナボコフだからこそ響く指摘だ。その内容は冒頭の「ロシアの作家、検閲官、読者」に詳しく書かれている。

 

トルストイを愛し、ドストエフスキーを徹底的にけなすナボコフ。その独自の視点と、歯切れのよさが何ともいい。ただし私もトルストイは最高に好きだが、ドストエフスキーも好きだ。そのあたりはどうも心中複雑だけれど、ナボコフドストエフスキー論の視点は私にとっては新しく唸らされるところもある。