木曜日20時、不定期更新。 小説、映画について書きます。 推理小説中心です。

『リプリー』、英語タイトルの方が的確。天才リプリーの姿を描く犯罪小説

 

 1955年、パトリシア・ハイスミス著。殺人を犯した主人公、トム・リプリーが、警察機関の捜査から見事に逃げ切っていく姿を描く、犯罪小説。

 

おもしろかったポイントは3つ。

 

(1)原題の方が的確に内容を表している

原題は『The Talented Mr. Ripley』。犯罪の天才・リプリーの姿を楽しむ物語だということが明示されている。邦題の『リプリー』だと、リプリーの天才ぶりを楽しむ小説であるという味の部分が抜け落ちてしまっているし、『太陽がいっぱい』だともはやイメージ。(おそらく、当時の流行りだったのだろう)そういう意味で原題の方が、小説をきちんと表していると言える。

 

(2)同性愛の要素が含まれている

リプリーは同性愛者のように見える。はっきりとは明示されていない。けれど、そうとしか読めないところがいくつかある。例えば、ディッキー・グリーンリーフの服を勝手に着てはしゃぎ回ったり、ナルキッソスのモチーフだったり、自分はディッキーに似ている、自分ならディッキーになり切れると思いこむあたりである。

 

その要素を方程式のように読者の方で埋めてあげると、リプリーがなぜそう考え、行動するのか、ストンと腑に落ちる。

 

はっきり描かれていないのは、時代背景が大きく影響しているのだろう。同筆者の作品『キャロル』では、その苦悩が描かれていた。そちらを読むと、より理解が深まる。

 

リプリー』『キャロル』ともに映画化している。

  

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 

 

 

キャロル(字幕版)

キャロル(字幕版)

  • 発売日: 2016/08/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 

リプリー (吹替版)

リプリー (吹替版)

  • 発売日: 2016/11/29
  • メディア: Prime Video
 

 

(3)サスペンス小説としての完成度の高さ

行き当たりばったりで危なっかしいところはあるのだけれど、緻密なアリバイ工作をするリプリーは、まさに犯罪の天才と呼ぶにふさわしい。けれども、警察や知り合いのマージ、依頼主であるディッキーの父の目をごまかせるのか……それは最後まで分からない。読者もリプリーと共にハラハラすることができる。

 

 

最後に

さて、この小説は犯罪小説だ。犯罪者である主人公は、一体どんな結末を迎えるのか。捕まるのか、逃げ切るのか、あるいは……? そして、そこでリプリーは何を感じたか。

 

それは、小説の最後の最後、彼がなんと叫んだか。その言葉の中に、現れている。

『幻の女』、なんでそんなに人気があるの?

 

 1964年、舞台はニューヨーク。ある男が妻を殺害した容疑で逮捕されてしまう。彼は無罪を主張するが、すべての証拠が、彼が犯人であることを示唆している。彼の無実を証明できるのは、その間、行動をともにしていた女だけだ。

 

けれども、その女は見つからない。女は幻のように姿を消してしまったのである。裁判が終わり、男の死刑が確定。男は刑務所に収監された。新たな証拠が見つからなければ、再審はできない。どうにかして女を見つけ出さなければ、刑が執行されてしまう。

 

追い詰められる男。けれど、男は刑務所の中だ。捜査はできない。だから男は、その捜索を、一番の親友に託すことにした。

 

海外ミステリのランキング上位に入る作品。その要因は大きく三つあると感じた。一つは、とても分かりやすいシンプルな構造をしていること、二つ目はカウントダウンがあること、三つ目は、友情の話であることだ。

 

  • シンプルな構造

話の構造はシンプル。目的は「幻の女」を探すこと。彼女を見つけ出せれば、無罪放免。失敗すれば、死刑。とても分かりやすい。

 

捜査方法も単純。とにかく必要なのは女の証言。だから、その「幻の女」を探すのみだ。他の証言者たちに再度、聞き込みを行い、隠していることを炙り出していく。

 

すると、捜査を続けるうちに、不思議なことが起きる。次々と事件の関係者が死ぬのだ。それは事故なのか、あるいは殺人か。男が無実ならば、真犯人がいるはずだ。その真犯人が暗躍しているのかもしれない!

 

章を追うごとに謎が深まり、混迷を極めていく。けれども、読者が道に迷うことはない。どうすれば事件は解決するのか? そう。「幻の女」だ。女を見つけ出せれば、すべては解決するのだ。

 

 

  • カウントダウン

目次を見ると、死刑執行までのカウントダウンがされている。死刑執行150日前、死刑執行21日前、死刑執行15日前……。そして、死刑執行当日、死刑執行時、死刑執行後1日で物語は終わっている。

 

目次を読むだけで、期待感が高まる。

 

さらに本文を読むと、その目次も効果的に使われていることが分かる。14、13、12日に至っては、本文が一文字も書かれないまま話が進む。何の手がかりも得られずに時間だけが過ぎている。

 

おもしろい表現だ。

 

  • 友情

そして、もう一つの特徴は、この話は、友情の物語であるということだ。

 

事件は二転三転し、驚きの結末を迎える。そうしたミステリとしての読み応えもあるのだけれど、視点を変えると、この話は自分の無実を晴らしたい男と、その男から依頼を受けた親友、二人の物語であったといえる。

 

最後のページを読み終えて振り返れば、この結末に至れたのは、この二人だったからだと言えるし、この二人でなければ、このような結末には決して到達し得なかったと思える。

 

謎と二人の登場人物が見事に融合している。ちりばめられた謎が二人の男を、二人の男の関係が謎を輝かせる。謎と登場人物が互いに響き合っている。

 

  • まとめ

シンプルでありながら、読者をハラハラさせる仕掛けに富む。そして、読み終えた後には、二人の男の関係が心に残る。

 

読みやすさ、分かりやすさ、驚き。様々な点から見て、完成度の高い傑作。高評価に納得。

『新感染』、ゾンビ映画、定番ハズレなしのエンターテインメント作品

 

新感染 ファイナル・エクスプレス(字幕版)

新感染 ファイナル・エクスプレス(字幕版)

  • 発売日: 2018/01/01
  • メディア: Prime Video
 

ゾンビ映画。都市でゾンビ・ウイルスがばら撒かれたら……というパニック映画。父と娘、夫と妊婦、高校生のカップルなど、様々な人たちが生きるために必死に逃げる。

 

おもしろかったポイントは3つ。 

 

  • 自分の一番好きな人がゾンビになってしまったら?

ゾンビ映画の定番の問いかけ。

 

愛する人が、ゾンビに噛まれ、だんだんとゾンビに変わっていく。そんな時、あなたはどうしますか? 

 

その問いかけが様々な形を変えて、行われる。人間のうちに殺すか、殺せず、噛み殺されるか。まだ助かるんじゃないかという希望。殺さなければ自分が殺されるという葛藤。そして、すべての希望を打ち砕くゾンビ化からの死。愛するものに殺されてしまう不条理。そんな現実が、怒涛のように、一気に押し寄せてくる。

 

その問いに対する答えを、ほとんどの人は持っていない。殺せないよなと思うし、殺されるのも嫌だ。だが、選ばなければ殺される。そこに正解はない。

 

  • 人間の本性が出てしまう

人間のエゴが剥き出しになるところも良い。

 

追い詰められた人間は、生きるためにあらゆる汚いことをする。けれど、映画の中でエゴを剥き出しにするとどうなるか? 罰が下る。大抵は、とんでもない凄惨な死に方をする。特に『新感染』は、勧善懲悪の要素が強かったように思う。悪い奴は徹底的にひどい目にあい、正しいことをする人間が生き残る。

 

もちろん、全ての良い人が生き残れるわけではない。良い人もほとんどは死ぬ。だが間違いないのは、悪党はもれなく全員死ぬということだ。

 

 

  • 父と娘、夫と妊婦、高校生のカップル。分かりやすい二人一組

主役級の人たちが二人組セットになっているのも良い。

 

父と娘、夫と妊婦、高校生のカップル。どちらが生き残るだろうか。また、どんな風に別れるのがより美しいか。もし逆だったらどうだろう。そんなことを考えるのもおもしろい。

 

分かりやすい関係になっているので、先の展開が予想しやすい。

 

そして、予想が裏切られるのも楽しい。話の筋がしっかりしているからこそ予想が立てられるし、その裏切りも気持ちが良い。

 

  • まとめ

ゾンビ映画に期待される要素があり、分かりやすい人間関係、分かりやすい展開が待っている。けれど、そこには、簡単に答えの出せない問いがある。愛する人がゾンビに変わってしまったら、あなたはどうしますか?

『女には向かない職業』、キャリア一年目の新人を応援したくなる

 

女には向かない職業 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
 

 探偵小説。1972年。主な舞台はイギリス、ケンブリッジ。ロンドンとケンブリッジを行き来する。位置関係はこんな感じ。

 

主人公はコーデリア・グレイ、22歳。冒頭、いきなり探偵事務所の共同経営者だったバーニイ・プライドが自殺してしまう。バーニイは不治の病に冒されていたのである。

 

十分な蓄えのないコーデリアは、事務所を続けるか、畳むかの選択を迫られる中、バーニイが生前、受けていた仕事の依頼人がやってくる。コーデリアは話の流れで、その依頼を引き継ぐことになる。

 

物語の流れは追いやすい。コーデリアは読者にきちんと捜査方針を開示してくれるし、人間関係は複雑に入り組んでいるわけでもない。事件を隠蔽しようと暗躍する人間は少なめ。どうやら、『女には向かない職業』は、複雑怪奇な謎を解く探偵の冴えではなく、コーデリアの人生のはじまりを応援する物語らしい。

 

特にそう感じさせるのは、犯人と対峙するシーン。

 

コーデリアの推理は冴えている。けれど、犯人を最後まで追い詰めることができない。将棋でいうなら、王手はかけたが、結局積まず、逃げられてしまう……みたいな展開なのだ。物証がない。推理=事件解決ではない。どうやって事件を終わらせるか。徹底的に物事を先回りして考えておくのが探偵だ。だが、コーデリアにはまだそこまでの腕がない。何しろコーデリアはド新人。サム・スペードやフィリップ・マーロウ、V.I.ウォーショースキーのような、事件をまとめあげる腕はまだ彼女にはない。

 

とはいえ、話のテンポは良いので、ぐんぐん読める。人との出会いが、彼女を助けてくれる。そんな幸運を引き寄せることができたのは、バーニイ・プライドのおかげだ。彼の教えがあったから、彼女は謎を解き、真実に肉薄することができた。

 

その感謝を込めて、彼女はバーニイと立ち上げた仕事を続けていく決心をする。

出会いが人生を変える。そんな物語。

『やし酒飲み』、構造はシンプル。あの世に行って帰ってくる話

 

 『やし酒飲み』、アフリカ文学。1946年。支離滅裂な話なのかと思っていたのだけれど、かなりしっかりとした構造をしていた。

 

一言でいうと、あの世に行って、帰ってくる話。やし酒が大好きな男が、また酒を飲みたくて、死んだやし酒職人を探しにいく。男は旅の果てに職人と会い、そしてまた自分の生まれた村へと帰ってくる。

 

その間、とても長い冒険がある。日本でいえば『古事記』、黄泉比良坂の話のようでもあるし、長い長い冒険の果てに故郷に帰る、ギリシャ文学の古典、『オデュッセイア』のようでもある。

 

ぼおるぺん古事記 一 天の巻

ぼおるぺん古事記 一 天の巻

 

 

 

ホメロス オデュッセイア 上 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア 上 (岩波文庫)

 

 

 

元々、アフリカにそのような骨格を持った話が存在するのか、あるいは西欧の影響を受けた結果、そう編集された文学なのかは分からなかった。研究者の本に当たれば詳しいのだろうけれど、なかなか深掘りするのは大変そう。

『ゲームの王国』、「歴史」・「SF」・「認知の歪み」、いろんな要素のごった煮が楽しい!

 

ゲームの王国 上 (ハヤカワ文庫JA)

ゲームの王国 上 (ハヤカワ文庫JA)

 

 SF小説。上巻は1956年から1978年、ポル・ポト政権下のカンボジアが舞台。「平等な社会を実現する!」、そんな理想に挑んだ人間たちが生み出したのは、この世の地獄だった。そんな、皮肉な世界で生きる人々の姿を描く。

  

そこでは、日本に生きる私たちが許されている様々なことが制限され、否定される。まず個人は、巨大なシステムへと組み入れられる。システムは私たちに対し、忠誠を要求する。個人的な意見や感情を持つことは否定され、それを持つ人間は即座に抹殺される。システムはチェックすることも忘れない。危険な思想を持っていないか、様々なトラップが仕掛けてくる。システムに対する不平不満を述べれば、そこで終わる。密告されれば命はない。何かを思っていても、決して口にしてはならない。信用できる人間は誰か。常に考え続けなければならない。

 

まさに地獄。そんな地獄から抜け出すにはどうすればいいのか? 主人公、ムイタックの目を通して、そんな世界を見ることになる。

 

 

ゲームの王国 下 (ハヤカワ文庫JA)

ゲームの王国 下 (ハヤカワ文庫JA)

 

下巻は飛んで2023年以降、未来の話。

 

主人公のムイタックは、脳波を使ったゲームを開発する。話のメインは、ムイタックとソリヤの純愛だ。二人の天才のねじれた愛の行方を読者は目撃することになる。

  

上巻の方が印象に残った。どうすれば地獄から抜け出せるのか。生きるためには、考え抜かなければならない。地獄にさす一筋の光。その光を頼りに、前に進むしかない。そんなサバイバルものとしての楽しさがあった。

 

一方の下巻は、一応、世の中は安定している。政治は腐敗しているけれど、なんとか生活できるくらいの状態にはなっている。けれど、そんな世界では満足できない二人が世界を変えようとする。そんな理想の話が描かれる。

 

上巻は地獄めぐりの話であり、下巻は夢を追い求める者の末路を描いていた。上巻には遠くにあるわずかな希望を感じたが、下巻にはだんだんと収束していく寂しさがあった。それが読後感の違いにつながったのかもしれない。

 

● 

『ゲームの王国』は、章ごとに様々な技巧が凝らされる。

 

やし酒を飲みまくってめちゃくちゃなことをする男や、勃起で真実に至るテレビ屋などは、チュツオーラの『やし酒飲み』や、ピンチョンの『重力の虹』の影響を感じた。

 

 

 

 

 章によっては、土を操って敵兵を殺害したり、輪ゴムで未来を予言をしたり、嘘を聞くと勃起したりする人たちが出てくる。その人たちは正気なのかは分からない。間違いないことは、彼らの目から見た世界を描いているということだ。土を操る男は、自分は土を操れると信じているし、輪ゴム男は輪ゴムが未来を教えてくれると硬く信じている。勃起男もそうだ。嘘つきは勃起が教えてくれる。

 

彼らの精神状態は外から見るとまともではない。けれど、彼らの中では完結している。そう考えなければ、自分の身に起きている矛盾や不可思議な現象を説明できないからかもしれない。認知は歪んでいる。

 

私たちがそれを否定しても無駄で、彼らが現実を受け入れるためには必要なことなのだ。それは我々の人生にも通じる心のあり方だ。

 

しかし、そうした「自分の信じたものが正しい」と考えは、危うさも孕んでいる。それは『ファンタジーランド』や『11の国のアメリカ史』などに書かれていた人たちのことを思い出させる。

 

 

 

14041.hatenablog.com

 

 

14041.hatenablog.com

 

 

SF小説は客観性や科学的な思考を重んじる。

本書の中ではそれとは対極にある人たちの姿にも多くのページが割かれている。

そいういう意味では、SF小説というジャンル小説の枠からは大きくはみ出た小説のようにも思える。様々な要素のごった煮が楽しい小説だ。

『サマータイム・ブルース』、女探偵の奮闘。ならずものと戦うアクションもあるよ

 

 探偵小説。1982年の作品。生活感にあふれ、生き生きとした描写が楽しい。

 

『血の収穫』『マルタの鷹』などと同じく私立探偵ものだが、読み味はかなり異なる。大きな違いは、主人公・ウォーショースキーの内面が描かれるところ。そのため、探偵が何を求め、どのような推理をして、なぜそのような行動をするのか、その理由は明らかだ。怪しい奴らは出てくるけれど、ウォーショースキーがすぐに推理してくれるので、読者も安心。

 

おそらく犯人はあいつだろう。だが、証拠がない。悪党を追い詰めるには、確かな証拠が必要だ。だが、そんなものはあるのか? ある。きっとある。探偵はそう信じる。そして、わずかな手がかりの糸をたぐり、真実を探し続ける。途中、暴力組織に脅されたりするけれど、探偵は挫けず、街を駆けずり回る。不屈の探偵と一緒に、事件解決のために奔走する。そんな気分を味わえる小説だ。

 

内面が描かれると、こんなにも分かりやすくなるのかと、『血』『鷹』を読んだ後だと、よりはっきりと感じる。もちろん、その方が優れているということではない。『血』『鷹』は、探偵の心が分からないところが、むしろ魅力だ。

 

ウォーショースキーは弱者に寄り添ってくれる。そんな優しい探偵なのだ。

『マルタの鷹』、本心を見せないタフな男が、たった一度だけ気持ちを吐露するのが最高

 

 前回に続き、ダシール・ハメットのハードボイルド小説。1930年の小説。『血の収穫』とほぼ同時期の作品。探偵、サミュエル・スペードと、鷹をめぐる物語。

 

依頼人はミス・ワンダリーと名乗る女。彼女の依頼を受けて捜査を開始するが、いきなりトラブル発生。相棒が何者かに殺されてしまう。そして、何を企んでいるのか分からない謎の男たちや、警察がサムの周りをうろつきだし、依頼人の女は姿を消す。事件は混迷を極めていく。

 

プロットは複雑だ。様々な人間が、それぞれの思惑を抱え、動き回る。それらは一見するとバラバラな出来事だ。だが、探偵が悪党の脅迫に屈することなく手がかりを探し、冴えた推理を展開したとき、ひとつの真実が見えてくる。それこそが探偵小説の妙味であり、チャンドラーの『ロンググッド・バイ』やロス・マクドナルドの『さむけ』などにも通じるハードボイルド小説の妙味と言えるだろう。

 

『マルタの鷹』『血の収穫』の二冊を読んだ後の方が、『ロング・グッドバイ』『さむけ』のおもしろさが増したように感じられた。『鷹』や『血』の方が、構造がシンプルである分、ハードボイルド小説と他の推理小説(例えば、シャーロックホームズやブラウン神父のような)との違いを、よりはっきりと識別できる。

 

ハードボイルド小説には、特徴となる展開がいくつかあるようだ。

・主人公は最初、依頼を受けて事件に関わるが、途中で依頼を打ち切られる。だが、新しい依頼人を見つけ、真実を追い続ける。

暴力組織や警察からこれ以上関わるなと警告されるが、屈しない。

・部屋を荒らされたり、殴られたりする。

・愛する者との出会いと、悲しい別れがある。

・弱者に優しい。情に脆い。

・裕福ではない。金に困っている。

・ロマンチック。理想を語る。

・けれど、事件の解決方法は現実的。警察に引き渡し、物事をきちんとおさめる。

etc

 

そうしたポイントを押さえ、他の作品とどう違うかとみていくと、より味わいが増す。 

 

14041.hatenablog.com

 

 

14041.hatenablog.com

 

 

最後のシーンの、感情的なやりとりはなかなか味わい深い。サム・スペードが本心をこぼすところがある。決して本心を見せなかったタフな男が、最後の最後で、心のうちを晒してしまう。そういうところがロマンチストと呼ばれる由縁なのかもしれない。(現在の視点から見ると、ややマッチョな印象ではあるのだけれど)

 

美しい生き方とは、その態度に現れる。

『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』、主人公の碇シンジくんは、テレビと映画では異なる問題を抱えているみたい

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • 発売日: 2012/11/17
  • メディア: Prime Video
 

 もうすぐ第四作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されるので、あらためて前作の『Q』を観た。2012年公開。時事ドットコムで2012年の出来事を調べると、習近平国家主席になり、オバマが再選し、山中教授がノーベル生理学賞を受賞し、株価は8000円台で、景気後退局面に突入したと言われた年だ。(実際にはその後の金融政策により、株価だけはぐんぐん上がった)

 

『序』『破』と比較すると、明快なカタルシスがなく、次回作へのフリが強く意識されている印象を受けた。『Q』と『シン・エヴァンゲリオン』がセットになって、初めて完成する、そんな印象だ。それを意図していたかどうかは、これから公開される映画を見て判断するしかないわけだが、もし仮にそうだったとしても、四作目の公開は『Q』公開から9年後。とんでもなく長い前振りだ。

 

あらためて観ると、『Q』はテレビ版に近い印象を受けた。けれども、大きく異なる点もあった。

 

テレビ版は、大まかに言うと、秘密結社の秘密の儀式の生贄にされかけて、生き残った人の話だった。

 

永遠の命を求める秘密結社が、数億人いる人類の魂を一つにまとめ上げて、不死の生命に生まれ変わる秘儀を行った。その生贄の羊に選ばれたのが、碇シンジくん。彼は最後まで真実を教えてもらえず、利用され、儀式(人類補完計画)の生贄にされた。

碇シンジくんは他人が嫌い。誰かに傷つけられるくらいなら、他人なんていらない。そんな徹底的な人間不信の碇シンジくんを生贄にして、儀式は成功するはずだった。けれども、様々な人との出会いを通じて、碇シンジくんは成長していた。最後の最後で裏切り、他人のいる世界を望んでしまう。その結果、儀式は失敗。人間は不完全なまま、地上に戻された。

 

碇シンジくんの願いがそのまま世界の行末に直結する。そんな物語だったのだけれど、シンジくんは最後の最後まで人間のままだった。あくまで超存在だったのは、彼の願いを叶える、エヴァンゲリオンであった。

 

一方。

 

『Q』の世界では、様子が違う。碇シンジくんは、14年が経っているのに、歳をとっていない。それは、アスカ、マリ、レイ、カヲルも同じだ。歳をとっていないのは、エヴァンゲリオンに乗っていた子供たちばかり。アスカは「エヴァの呪縛」などと、意味深なことを言う。どうやら、碇シンジくんたちは、人間とは異なる超存在になっているようだ。

 

歳を取らない。その性質を持ちながら、人の姿をしている碇シンジくんたちは、完全な生物である使徒と、人間の間の生物なのかもしれない。使徒でもなく、人でもない。だから両方から疎まれる。そんな存在だ。

 

その設定は、少年漫画などでよく使われる。敵と味方。その間に立つのが主人公である。最近で言えば、『チェーンソーマン』は、人間と悪魔。『鬼滅の刃』は人の兄と鬼になってしまった妹の話だ。作品によって立ち位置は異なるが、敵と味方の間に立ち、どちらにも属さず、正しい選択をするのが主人公である。

 

そう考えると、『シン・エヴァンゲリオン』では、碇シンジくんは人間と敵の間に立ち、正しい選択をしてくれるのではないかと予想するのだけれど、かつての劇場版はどっちともつかない問いを投げかける内容だったので、その予想は全く外れるかもしれない。そして、それを期待しているところもある。『エヴァンゲリオン』は、予想の斜め上をいくところに魅力がある。

『血の収穫』、ハードボイルド小説はここから始まる

 

血の収穫【新訳版】 (創元推理文庫)

血の収穫【新訳版】 (創元推理文庫)

 

ハードボイルド小説の代表作を読んでみようと思い、『血の収穫』を手にとった。ハードボイルド小説、黎明期の作品。出版は1929年。世界恐慌が起きた年。昭和4年だ。

 

『血』を読むと、ハードボイルドというジャンル小説の妙味がどこにあるのかが、よく分かる。ハードボイルド小説は、ある種のスーパーヒーローものなのだ。探偵は、類まれな行動力、明晰な頭脳による冴えた推理力、決して折れない鋼の魂を持っている。そのヒーローが、社会の裏側にはびこる悪を倒す。そしてヒーローはその心のうちを明かすことは滅多にない。謎めいている。読者はその姿を外から眺めて楽しむのである。

 

冒頭、読者に対する興味の引き方も独特だ。探偵の元に依頼が持ち込まれる。が、いきなり、依頼人が殺されてしまう。当然、依頼は中止……になるかと思いきや、探偵は引っ込まない。街にはびこる悪党たちと、丁々発止とやりあいながら、事件の真相へとにじり寄っていく。もちろん、きちんと金も稼ぐ。新しい依頼人を見つけ出し、契約を結ぶ。探偵はビジネスだ。ただ働きはしないのである。

 

不可解な事件が起きる度に、探偵は現場に乗り込み、冴えた推理を展開し、絡まった状況を解きほぐしていく。四つの事件、四つの推理。探偵によって、事件の謎が解明される。その構造がとてもシンプルで分かりやすい。

 

冒頭いきなりの依頼人の死、血みどろの殺人、主人公自身が事件に巻き込まれていく様、女との悲しい別れなど、ハードボイルド小説に欠かせない要素がすでに入っている。もちろん、荒いところはたくさんあるのだけれど、原点でありながらかなり完成度の高さに驚かされる。

岩田さんの言葉

 

 「ほぼ日」で掲載された記事を一冊にまとめた本。岩田さんがどのような人物なのかが分かって、親近感がわく。

 

・判断とは情報を集めて、分析して、優先度をつけること

・そこで出た優先度に従って、物事の順番を決めて進めていけばいい

・才能とは「ご褒美を見つける能力」のことなんじゃないだろうか

 

彼が考え、話していたのは、現場で戦い続けた生きた言葉だった。だから、私たちの気持ちに届く。だから、古びない。言葉は生き続ける。

苦しみの出口を探す

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 ハリウッド映画のような、エンターテインメント作品ならば、最初に問題の提示があり、主人公の選択があり、冒険があり、どん底を経験するが、なんとか立ち上がり、問題を解決し、ハッピーエンドに到達するだろう。

 

「82年生まれ、キム・ジヨン」には最初から出口がない。主人公のキム・ジヨンはある日、現実の出口のなさに気づいてしまう。

 

キム・ジヨンはいやな目にあっても抗議しない。不平不満があっても、ぐっと言葉を呑み込んでしまう。そんな彼女の心の中に、おりのように鬱屈した感情が溜まっていく。それが頂点に達したとき、キム・ジヨンは他人の「声」をかりてその本心を吐露するようになる。その「声」は、キム・ジヨンには知り得ない、亡くなった女性の二十年前のできごとを語ったりするので、病気というよりも、巫女のような、超常的な力だ。

 

本文はカウンセラーによる聞き書きというスタイルで書かれていて、中身の重さに比べて語りの印象が軽い。第三者の少し冷静な目で物事を見つめているからだろう。

 

少し冷たい、距離をとった語りで、キム・ジヨンの体験したエピソードを積み重ねていく。そのエピソードは、1つ1つがキツい。ハッピーなエピソードにも、ちくりと読者の心を刺す、刺が隠れている。それはギリギリいっぱいにたまったコップの水に滴り落ちる水滴だ。いつ溢れてしまうか分からない。それなのに、水滴は止まらない。

 

そのキツさ、生きづらさに、現代を生きる私たちの姿を、どうしても重ねてしまう。

出口はないのだ。

テレビドラマ(推理もの)のフォーマットを考える

1月から3月は何本かテレビドラマを観た。「テセウスの船」と「アリバイ崩し承ります」にはかっちりとしたフォーマットがあることに気づいた。水戸黄門において「印籠を出して事件解決」というような毎回決まりの流れがある。

 

 共に、原作がある。

テセウスの船(1) (モーニングコミックス)
 

 

アリバイ崩し承ります (実業之日本社文庫)

アリバイ崩し承ります (実業之日本社文庫)

 

  

●1 「テセウスの船」のフォーマット

(1)問題提起

(2)捜査開始

(3)人情話

(4)解決+どんでん返し

 

テセウスの船」の場合は、大まかにいうと、このような話の構造になっていた。

例えばこんな感じだ。

 

(1)「●●を探せ」「見つけられなければ、たくさんの人が犠牲になる」などのはっきりした条件が提示される。

(2)主人公は仲間と協力して捜索に乗り出す。けれども、見つからない。事情を知らない人が止めに入ったり、事件の関係者が邪魔したりする。

(3)もうダメかもしれない……父に相談しにいくと慰められる。主人公と父の関係など、親子や家族関係の泣かせのシーンが描かれる。

(4)主人公の頑張りでようやく●●を見つけることができた。けれども、●●は犯人ではなかった。まさか、他に真犯人がいるのか……!?

 

毎話(1)の提示と(4)の引きがあるので、何話か見逃しても楽しめる。途中から見ても話が分かる。それはテレビドラマでは必要な要素かもしれない。

 

●2 「アリバイ崩し承ります」のフォーマット

(1)事件発生(容疑者は■■。しかし鉄壁のアリバイがある)

(2)依頼(管理官の察時が、時乃にアリバイ崩しを依頼する。この時点で察時と時乃は犯人は■■であると確信していることも多い)

(3)捜査開始(手がかりを集めていく。時乃の指摘が物語解決の鍵になる)

(4)閃き(時計のイメージ、時乃、「時を戻すことができました。アリバイは崩れました」というような決め台詞をいう)

(5)謎解き(管理官の察時が犯人を追い詰めて事件解決!)

 

お決まりの展開になっているので、大変観やすい。

 

ひとつだけ分かりにくいところを指摘すると、(4)から(5)のシーンの繋がりだ。時系列がごちゃごちゃになっているのだ。

 

順番でいえば、「時乃が察時に推理を披露する」「察時が犯人の前で推理を披露する」になるのだけれど、察時の推理に合わせて「時乃が察時に推理を披露するシーン」がカットバックされる。そこのリズムがかなり特殊なように感じられて、最初は乗れなかった。

 

そうは言っても、何本か観ていくと、その戸惑いも感じなくなる。毎回似たような演出になっているので、「アリバイ崩し」を観るためのフォーマットが頭の中にインプットされているからだ。

 

取り扱う「謎」を主眼におく場合、話を複雑にするよりも、シンプルに削ぎ落として、フォーマットに当てはめていった方が、観やすいのかもしれない。

映像体験で感じる不思議は魔法


映画『1917 命をかけた伝令』約3分半の本編映像

 

「この伝令を伝えなければ、千人以上の兵士たちの命が危機にさらされる。その中には君の兄も含まれている。だから君は何としてもこの伝令を届けなければならない」

 

「1917」は、上官からそう言われた二人の兵士が前線にいる部隊に伝令を伝えにいく話だ。とても単純な構造の物語ではあるのだけれど、そこで味わう戦争の恐怖は映画ならではといえる。その恐るべき現場を、主人公たちと一緒に目撃するのがこの映画の醍醐味だ。

 

映画館の大画面でみていると、主人公と一緒にリアルタイムでその体験をしているように感じてくる。ワンショット風に撮影されていることもあり、臨場感が効果的に演出されているからだろう。

 

映画を観終わった後に、冷静になって振り返ってみると、一体どうやって撮影したんだろう、という疑問が浮かぶ。ネットで検索すると、youtubeなどでその撮影方法が紹介されている。舞台裏を知ると、かなり緻密に設計されていることが分かり、さらに映画のおもしろさが増す。

 

映画をみているときに感じる「不思議」は「魔法」であり、私たちの興味を掻き立てる。そのような映像体験を「魔法」と表現していたのは、落合陽一さんだった。 

14041.hatenablog.com

 

映画が魅力的であり続けているのは、そうした「魔法」がまだ存在しているからなのだ。

みんなが優しい世界で

 

線は、僕を描く

線は、僕を描く

  • 作者:砥上 裕將
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 とにかく周りにいるみんなが優しい。それが印象に残る物語だった。

 

両親を亡くし、心に傷を負った主人公の再生の物語である。悲しい体験をした主人公は、心が沈んでいる。けれども主人公には、そうであるという自覚がない。自分の心や気持ちを正確に掴めずにいる。だから、そこから脱出したいとも思っていない。ただ、悲しみに沈んでいる。水底に沈んだまま、上から降ってくる光を眺めているだけで、そこから浮かび上がろうともがくことなどない。そんな状態だ。

 

そんな主人公に偶然出会った先生が手を差し伸べる。先生は主人公に昔の自分を重ねていた。だから先生は、君が生きる意味を見出して、この世界にある本当に素晴らしいものに気づいてくれればそれでいいと先生は言う。主人公は先生の与えてくれた「救い」によって、自らその生きる意味を見つけるため、動き出す。

 

人の縁が希望になる。その可能性が美しく描かれていた。

 

小説や映画は、現実社会を映す鏡だ。

 

この小説を読むと、現代社会を生きる私たちの痛みが何かをひしひしと感じる。私たちの抱えている問題はとても複雑で、その問題がなにか全体像を掴むことも難しいし、その糸口を見つけ出すこともなかなかできない。そんな状況から脱出するにはどうすればいいのか。そこに作家が何を提示するかで、描かれる物語が違ってくる。先日みた「パラサイト」にも、脱出不能な絶望が描かれていた。


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編

その二つの作品を対比的にみると、「線は~」も「パラサイト」も最後に希望が提示される。「パラサイト」はちらつかされる希望が重たく心にのしかかるが、「線は~」はとにかく優しく、私たちの心を癒す。